北宋末〜南宋にかけての越訴規定について

この文章は、『東洋史研究』58-2(1999)に載せられた「北宋末〜南宋の法令に付された越訴規定について」を、改訂して掲載したものです。このウェッブサイトから見られる内容は、参考のためのオンライン用の改訂版であり、原文とは異なります。引用される場合には、必ず原文にあたり、出典を明記して下さい。このウェッブからの引用は、慎んでお断り申上げます。詳細はメールで御相談下さい。


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北宋末〜南宋の法令に付された越訴規定について




はじめに

 地方官に対する監察制度や、「官」と「民」の関係を考えるとき、越訴は重要な要素である。越訴とは一般的には人々が定められた訴訟窓口−通常は県−を越えて直接上級機関に訴え出ることを言うが、地方官の不正で被害を受けたときなど、人戸はさらに上級の機関や京師にまで訴え出る。他日論じるが、このように住民が直接行動に出た場合、非のあった地方官の責任が問われることもあるし、また監察官−宋代で言えば監司や台諌−もこのような住民の動向から情報を得ることも少なくないようだ。しかし、かかる行動には、地方官に非があり已むを得ない雪冤の行動なのか、地方官を凌ぐ不当な越訴なのか、民事的な小事が不当に上級機関に持ち込まれたものなのか、多くのケースが有り得る。また現実社会の人々の関係や行動も地域、時期によって様々だろう。そして健訟や越訴に対する王朝の姿勢や、それを区別する認識枠組みは、王朝や時期により微妙に異なる。例えば、「越訴」対策としての意味合いが強いとされる明の老人制は、地域の有力者と国家の関係を特徴づけるし【1】、南宋にはかなり細かく、訴状提出の手続きが定められた【2】。では、時期によって王朝の政策が異なるのはなぜか。社会に何らかの変化があったからだろうか。地域研究の視点からすれば、法制のみによって「中国社会」の変動について拙速に展望を概括すべきではないだろうが【3】、むしろより具体的な地域社会の変動を明らかにするための一歩としても、人々の訴訟行動に対して時々の中国王朝はどのような姿勢で臨んだか、またなぜそれは変化したか、例えば宋と明・清の間という、比較の視点から検討する必要はあろう。本稿ではかかる意識のもとに、近日筆者が行う予定の御史台による地方政治情報把握の考察の準備という目的もあり、南宋朝の越訴に対する認識枠組みとそれへの取組みを明らかにしたい。ただ、比較の視点に立つと言っても、筆者には宋以外の王朝の制度については準備がないので、北宋末から南宋への変化を注視しつつ、他の時期については本稿では今後の課題として二、三の先行研究の参照を行う程度である。
 具体的に本稿で扱うのは、法令の末尾に、内容の実行を促す目的でしばしば付される、「越訴を許す」規定(本稿では「越訴規定」と称し、越訴規定を含む法を便宜的に「越訴法」と称する【4】)である。これは宋代特有の規定とされており、既に専論もあるが、その位置付け等においてなお十分な見通しが得られていない【5】。また、越訴法と言ってもそれは南宋から意識されたもので、元来特定の趣旨をもった諸法令(本稿では、律や編纂された勅令格式から、単行の勅、尚書省の命令など、行政上の命令を幅広く法令と称する)に付随する、おまじないの文句のようなものに過ぎない。しかし、地方官吏の不正行為への対処を考えるときにこの規定が看過できないのは、以下本稿で示すように、それは無原則に法令に付せられたのでなしに、現実に機能することを期待されて不正を犯す地方官吏等の特定の行為に対応して付されていたからであり、またなにより、この規定が現実に地方政治の中である程度の役割を果たしていたと考えられるからである。そしてかかる機能を意識されたからこそ、様々な分野の法令に横断的に付された越訴規定が「越訴の法」「条に於て越訴を許す事」などと呼称されてその扱いが問題化するのであり、これはひとつの「制度」と称して差し支えないだろう。またこれは少なくとも北宋中期までは行われていなかったし、恐らく、他の王朝において同様の制度はなかった。本稿ではこの北宋末〜南宋の越訴規定とはどのようなものだったか、またそれに関してどのような議論があったのかを見てゆく予定である。なお、越訴規定はあくまで上訴に関する規定であって、規定が付された法令そのものは、普通監察を主眼としてはいない。だが、官吏の不正行為と被害を受ける人々の関係を法制がどう捉え、秩序を維持しようとしていたかは、この時期の王朝の統治の理念や姿勢を知るうえで、重要だと思われる。この点については、末尾で一言する予定である。

第1章 越訴規定と地方官吏の不正の関係

* 宋代の用法
 宋代の主要な法典として、律(『唐律』と同内容の『宋刑統』)以外に勅令格式があり、その条文は様々な史料に断片的に残されているし、また法典に編纂される以前の様々な単行の詔勅や、法案にあたる上奏文なども残されている。それらの末尾には、しばしば内容の実行を促す目的で、上級官職等による実行の監督を命じる文言が付される。例えば「監司に覚察せしむ」「御史台に按劾せしむ」などで、こうした事例は無数に見られる。この規定は、通常法令の主旨に直接かかわるものではなく、その法令に実行力あらしめるために、事にあたる官や吏を監督する規定だが、その中には上級官庁のみならず、「人戸」すなわち官吏に非ざる一般の人々にこれを監督させるものもある。「違戻あれば人戸に陳訴せしむ」「仍お人戸に越訴せしむ」等の表現がそれで、陳訴については後述するが、この越訴を許す法令は、北宋末のある時期以降広く行われた。ところが、越訴とは本来、後述のように官庁のヒエラルキーや、官と民の上下関係を乱すとして原則禁止だったにもかかわらず、宋一代この越訴の法は出し続けられる。この宋代独特の用法に留意しつつ「越訴」という言葉を考えるときには、それが用いられる三つの文脈によって明確に区別して考える必要がある。その三つとは
  〈イ〉 唐律に始まり、清にまで受継がれた、根本法典や詔令の中で禁じられた行為であるところの、刑法用語の「越訴」
〈ロ〉 「人戸に越訴を許す」などの表現で北宋徽宗朝〜南宋の法令の末尾に監察規定の一種として登場し、南宋中期に「越訴の法」と称された「越訴」。本稿の主たる考察対象
〈ハ〉 人々が、上級衙門に対して直接的な訴訟行動を起こした時に、その現実を記述するために用いられた表現としての「越訴」
である。これらはもちろん同じ語の相互に無関係な用法として完全に独立しているわけではなく、例えば〈ロ〉の「人戸に越訴を許す」という表現が、〈イ〉の越訴禁止の根本原則の例外を言うとすれば、その「越訴」はすなわち伝統的な律の越訴〈イ〉だ、と言えないことはない。しかし〈ロ〉の越訴が、徽宗朝以降忽然として法令の末尾に極めて限られたパタンで登場し、その存在が南宋中期孝宗期に特に意識され、時として〈イ〉の越訴禁止の原則との関係が問題となったことを考えれば、これは明らかに唐〜清に一貫して存在した〈イ〉の越訴とは分離して考察せねばならない。「越訴」の語に関して〈イ〉、〈ロ〉の関係が特に意識されるようになってくるのは、本稿で述べるように、紹興末年以降のことである。また〈ハ〉について、地方官の用語法は伝統的な〈イ〉に強く規定されていた。つまり、非難の意味を込めて、人々が「越経台部」「越訴」する等と表現するのが通常だが、これは法律用語とはいささか異なった、社会風俗記述の用法である。本稿が主たる関心を寄せるのは法令末尾の〈ロ〉の「越訴」である。

* 越訴法の開始と議論
 宋の法令が個別事例について人戸に越訴を許し始めたのは、北宋末徽宗期だが、管見で最初の事例は大観四年のものである。諸路の監司州縣は「率科、率配買、及び省租税を紐折し、並びに一切營利誅求害民等の事を」止めるよう再三通達してきたが、官庁が上意をさえぎり、遠方の小民は申訴する所がないから、人戸に投状して越訴するを許す、投書を受け付けた官庁は速やかに処理せねばならぬ、という詔である【6】。次に政和三年の詔では、刑罰が法の通り行われず民を害していることを憂い、そのような場合には尚書省に越訴することを許し【7】、さらに宣和以降は、あらゆる分野で同様に地方官の不法行為に関して人戸に越訴を許す詔などが出されている。
 この「越訴」が冒頭にのべた〈ロ〉の越訴であり、『宋会要』に伝えられる上奏文や法令でこの越訴規定が付されたもを検すると、食貨だけで大かた二九〇余りにも上る。さらに南宋初には「州県之吏」の贓貪に対し、「應ゆる官員、入己贓を犯さば、人に越訴を許せ」「命官、入己贓を犯さば、人に越訴を許せ」【8】などの提案が受け入れられるなど州県官吏に厳しい越訴法が出され、『宋会要』所載の上奏や指揮、勅令などを眺めると、秦桧の専制期に指揮の濫発とともに本格的に増加し、南宋いっぱいこれは続くことになる。容易に地方官を罪に問う根拠を与える越訴法は、恐らく蔡京の時代に始まり、秦桧期に政争の具として助長されて来たと考えられ、ことに紹興四年には、法律上許された越訴を官が妨害しようとした場合に、この官を罪に問おうと
 諸ての人戸、条に依り越訴を許さるる事、而して訴えを被むる官司、輒りに他事を以て**し、追呼し官に赴かしむる者〈家屬同じ〉は、杖八十、枷禁し*拷せしが若き者、三等を加う
との立法がなされた【9】。越訴によって訴えられた官司が、越訴を不当に妨害しようとした場合に罰を与えるこの法(勅であろう)は、越訴規定が実際に地方政治の中で機能することを前提に設けられていたことを示す。この南宋初期は越訴規定が次々付されたピークであるが、越訴の弊害が指摘される高宗末年から孝宗期にかけて、さらに次のような議論が見える。紹興二七年侍御史周方崇は
 民間の詞訟、必ず次第有り。經に「僥妄驀越せしが若きは、則ち之れを坐するに罪を以てす」と曰う。苟しくも情理に大いに屈抑有りて官司敢えて容隱を爲さば、乃ち設けて越訴の法と爲す。勅令に該載〈の〉せらるるは、止だ十數條なるも、比年以来、一時の越訴の指揮は亡慮百餘件なり。頑民、反って此れに恃み、以て官司を擾し、獄訟は滋すます長ず。望むらくは刑部に行下し、一時の越訴を許せる指揮の編勅に載せられたる所に非ざるは、並びに勅令所をして重ねて刪除を加えしめ、以て訟牒を省かんことを【10】。
と、官司の不正に対しては冤罪救済のため越訴法の必要性を認めつつ、越訴が「頑民」に利用されているとしてその削減を主張する。朱瑞煕氏によれば、指揮とは尚書省が臨時に勅文を解釈し、下級に遵照し処理するよう命令する指令だが【11】、編勅に載せられた指揮----条法事類の申明として我々が目にする尚書省の命令はその一部である----以外、「亡慮百餘件」にまで膨れ上がった臨時の越訴の指揮は、積極的に削除せよというのがこの提案である。秦桧期には政事堂批状や指揮行事が乱用され、孝宗期には勅令格式への編入が図られたが、この周方崇の提案は、このような秦桧の臨時の指揮による政治批判の流れの中で出て来たものであろう。越訴は下級のものを用いて全国の政敵を追い落とす秦桧的な政治手法の一形態となっていたと思われる【12】。
 また隆興二年には
 三省言う、「人戸の訴訟、法に在りては先ず所属を経、次は本州を経、次は転運司、次は提点刑獄司、次は尚書本部、次は御史台、次は尚書省なり。近来健訟の人、多く官司の決絶を候たず、輒りに敢えて隔越して陳訴す。理してまさに懲革すべし」と。詔す、「越訴を許すの事を除くの外、餘は並びに條に依りて次第に經由せしめよ。仍お刑部に遍牒し行下せしめよ」と【13】。
と、判決を待たずに盛んに上訴する「健訟」を静める目的で、越訴許可事案以外は、訴訟の順に従って上訴するよう詔された。他の王朝との比較でも注目すべきことは、健訟を押さえようとする際、越訴の禁を厳にするのみならず、ここでは「越訴を許す事」とそれ以外を截然と区別し、越訴を許すこと以外のみにおいて越訴禁止を徹底しようとしている点である。また一方、「伏して刑部關牒を覩るに、越訴を許さざるは、甚だ當然の至りとなす」として、越訴の原因となっている審理の遅延がないよう徹底し、期限内に結絶が与えられなければ、「人戸は次第もて陳訴するを許す」と、越訴せずあくまで訴訟の順序を踏んで上訴すべきことが求められるなど【14】、この隆興年間には越訴禁止の原則(冒頭に示した〈イ〉)の確認が求められる議論が多く、越訴に厳しい姿勢が取られた。ただ留意すべきことは、この時期の越訴法批判にもかかわらず、以降も南宋いっぱい法令に越訴規定を付する立法が行われ続けたという事実である。上の周方崇の上言ののちも越訴法の事例は枚挙に暇がなく、後出の『慶元条法事類』中には、四〇以上の越訴規定が付された勅、令、申明を検し得る。また以上の諸史料から伺われることは、南宋朝の姿勢として、越訴を許す事案とそれ以外を区別し、越訴を許す場合にはそれを妨げるものを罰し、それ以外は越訴禁止の原則を厳格に適用しようとしているという事である。越訴は文末に付された空文的な規定ではなく、まさに地方政治の現場で機能することが期待されていたと言い得る。

* 慶元条法事類中諸条文の分析
 では、宋朝が人戸に越訴を許す事案とは、具体的にどのようなものか。すでに見たように詔勅発布を望む上奏文の段階から越訴規定は組み込まれており、対象とすべきものは無数にある。それらすべてを現存の諸史料から収集・分析することは極めて困難だし、必ずしも必要無い。そこで本項では、『慶元条法事類』【15】の越訴規定条文の内容を分析し、かつその内の幾つかの条文について成立過程をで確認したい。本書は現存する唯一の宋代独自の編纂法典だが、本書がまた越訴規定の分析に好適である理由も存在する。というのは、越訴規定が多見する徴税関係の部分が本書には多く残されているからである。また時期的にも詳細な越訴法は北宋末以来勅令に増加の一途を辿り、周の上言などで指揮・勅令が整理されたのがこのころである。考察には好適な材料と言えよう。
 『慶元条法事類』は巻八〇まで存在するものの、巻数で半数強の四四巻分は佚している。とはいっても、同書には一つの条文が重複して数箇所に出ていることが少なくなく、受納・商税関係はかなり残されているので、同書が網羅した条文の内現在徴し得る割合は十分と思われる。その現存分の法令の中だけでも、越訴を許す監察規定を伴った条文は、禁止・命令を定めた勅と令および随勅申明に合計三九条存在する。後載の「『慶元条法事類』越訴規定一覧」がそのすべてで、以下この表を適宜参照して議論を進めたい。分かりやすいように、全文を羅列せず、個々の条文を「場面」「行為」「罰」「越訴主体」「越訴先」という五つの構成要素に分けて示した。凡例は表の末尾を参照されたい。
 確かに監察規定、越訴規定は多く法令の文末に付され、一見すると条文の中で様々に述べられている事との細かい対応はない様にも見えるかもしれないが、実は内容と関係なくとにかく末尾に付されたようなものではなく、その法令が禁止しようとする行為や行為者との間に、明らかに対応関係が意識されている。この点につき、以下『慶元条法事類』に載せられた諸法が、上奏等や六部の勘会等で越訴規定などもそのまま引用されている例などを見てみたい。『慶元条法事類』中の越訴法を分析対象とするなら、時期や他の要因によって越訴規定が付されたのではなく、行為との関係で付されていたことを確認する必要があろう。
 密接な関係にある01-a、b、02の二つの戸婚勅の検討からはじめるが、01-a、b、02を現在必要な限りにおいて最小の部分に分けてゆくと、次のような要素からなる【16】。
01
 01-1 監司、以人戸合納穀帛絲綿之類、紐折増加價錢
01-2 監司、糴買糧草、抑令遠處輸納、若巧作名目、額外誅求者、並以違制論
01-3 守令奉行及監司不互察者、與同罪
01-4 亦許被科抑人戸越訴
02
 02-1 非法擅賦斂者、以違制論
02-2 科買折納而反覆紐折(如以絹折麥以苗折糯、其所數麦糯、而過苗絹時直之數及已折麥糯却再細納價錢者皆是)或別納錢物、過爲ホウ剋者、徒二年
02-3 並許被科抑人戸越訴
まず、(01-2〜4)は01-aとbともに共通、01-aにはさらに(01-1)が加わっている。aはbを拡張したものと見られるが、監察規定01-3,01-4はいずれも共通しており、おそらくbからそのまま移入されて末尾にまとめられたものと思われる。勅令のもととなった勅や上奏がはっきりしている例として、建炎二年に「詔、逃田税役、輒勒鄰保代輸、許人戸越訴、令提刑司覺察、……」【17】と見える詔は、『慶元条法事類』(七)では細字注の形で「逃田税役輒勒鄰保代輸、同」と法文化される。建炎二年の詔が後に「逃亡戸絶に非ずして欠人を追究し理納せしめず」、などの他の条文と合併された際、越訴規定は(七)の様に文末に「並びに人戸に監司に経り越訴を許す」とまとめられたものと考えられる。その他、令でも、もとの臣僚上言と越訴を許す監察規定は一致する【18】。なお、無論のことだが刑罰規定(以違制論、徒二年など)は個々の行為に付随しているから、末尾にまとめられたりしない。勅令が上奏で参照されるときも、複数の越訴規定が合併されるようである。上記の01,02などが戸部勘会で引かれる史料として、『宋会要』に紹興三〇年の以下のような記事が見える。
 戸部言う、「臣僚乞うらく、『人戸の輸納せし匹帛内に、式に応らず、まさに退換すべき者あり。比年以来、間に州県復た奸弊を生じ、夏税を受納するの日に遇い、胥吏を差し、場中に一所を別置す。紬絹を退換し、匹毎に人戸に銭を納めしめ、名を回税と曰う有るが如きは、既に赤歴に正附せず、稽考す可き莫し。望むらくは、厳に法禁を立て、旨を得、戸部に看詳せしめんことを』と。本部勘会するに、法に在りては、(ア1)擅に賦斂せし者は違制を以て論ず。(ア2)過為してホウ刻せし者は徒二年。(イ)監司、人戸の合に納むるべき穀帛絲綿之類を以て紐折し、價錢を増加し、或いは糧草を糴買するに遠處に抑令して輸納せしめ、名目を巧作し、額外に誅求せしがごとき者は、並びに違制を以て論じ、守令奉行し、及び監司の互察せざる者は、同罪を与え、亦た科抑を被りし人戸に越訴を許す。(ウ)合に納むべき官物の不正に収支を行う者は杖八〇。(エ)官物を収支するも即に歴に書かず、及び私かに歴を別置せし者は、徒二年。欲すらくは、諸路転運司に下して部する所の州県に行下し、前項見行条法を遵守せしめんことを」と。これに従う【19】。
傍線を付した部分ごと別表と対応させて検討すると、まず01-aがそのまま(イ)として引かれ、02-1がそのまま(ア1)、02-2「過爲ホウ刻者徒二年」が(ア2)、恐らく戸部が02の勅を省略しつつ「法」として参照したか、慶元より約四〇年溯る当時、02-1、02-2の一部がまだ合併されて法典に記載されていなかったかだが、後者であるとしても紹興末年すでに(ア1)(ア2)の法に越訴規定が付されていた可能性は高い。これに対して(ウ)は『慶元条法事類』では廐庫勅として「諸給納官物不正行支収、及敖庫不封鎖者、杖八十」【20】、(エ)も廐庫勅として「諸收支官物不即書歴及別置私歴者、各徒二年」【21】対応条文が見つけられるのだが、越訴規定のない勅であり、戸部勘会ではその直前、つまり(ア1)(ア2)(イ)が終わった時点でまとめて「許被科抑人戸越訴」を付している。ただ、もともと越訴規定がない条文に、後に追加されることは例外的だが皆無ではない。「詔、諸路州縣受納人戸苗米、往往過數、多收斗面、重困民力、令諸路監司覺察以聞」とする宋会要の淳煕三年の記事につづいて細字注で「六年九月二十七日、詔戸部遍牒諸路州軍、仍許人戸越訴、九年九月・十一年九月並如之」と見え【22】、戸部から諸路州軍に遍く牒した際、越訴が付け加えられたようだが、かかる事例は他には管見に及んでいない。
 要するに、ここに見られる幾つかの事例からは、複数の越訴法の条文がまとめられるときに、越訴法だけ末尾にまとめられることはあるが、編纂勅令の条文成立の段階から越訴規定は付随している場合には、基本的に行為と越訴規定の対照が認められ、それは省略されることは少ないということが見てとれる。すなわち、越訴規定は原則的に法で禁じる特定の行為に対応して受け継がれてきたのであり、越訴規定を付した条文を考察すれば、越訴がどのような行為を想定していたかが分かる。
 次に、表を、一瞥して明らかなように、地方官による不正徴税について、被害者の人戸に越訴を許す、とするものが非常に多い。すなわち、租税を違法に多く取る、他用・盗用する(3)、預借する(4)、納税手続きを正しく行わない(5)、減免すべきものをしない(6)、税額を故意に増減・割り当てする(24)、受納に際して〔収賄等を図って〕、正しく受け取らない(8)、胥吏が名目を作って貪る(12)、胥吏がひそかにチェックして、阻害する(18)、輒りに倉庫に人を伴って入り〔不正をする〕(21)、運搬を不法に強制する(31)、場を置いて買い叩く、絹を受け取らない(32)、紐折(別品目での納入の強制)し、価銭を増加する、別の銭物を収めさせて苛斂誅求する(1a、2)、遠距離者に納入を強制する(1)、糴買・和糴・和買で、買い叩く(19)、豊歉・土産の有無などを考慮せず抛買する(20,23)、勝手に税場を設けるなどして、商人等から違法徴税する(9、10、38)、災害で米穀を自由に般販すべきとき妨害する(23)、などである。輸納、収税は定められた額・方法(銭会中半など)によらなければならず(28,29)、特に30の廐庫勅申明では、一五項目の禁止事項が列挙されている。これらは、中央で統一的に認めた名目に違法に付加的に徴税するなど、地方官が様々な方法を用いて苛斂誅求や違法徴税を働き、人戸に損害を与えるものことを想定している。次に、税とは言えなくとも、地方官府が当然支払うべき金品を正当に払わず、結果的に人戸に損害を与えるものも目立つ。例えば、軍糧(11)、銭の改鋳や会子の偽造の告発に対する賞(13,37)、戦死者の家族への賞金(17)、兌便に対して支払うべき正銭・潤優銭(支那経済史考証下460、27)、所属未定の民間の寄庫銭(34)など、支給・返還を定められた通りに行わない場合、さらに寛恤の命令に従わない場合も(23)、越訴の対象となる。さらに本来第三者たる州県官が、民間の不動産売買に介入し、契約書への裏書きにより手数料徴収(35)を強いる例もある。そしてこれらはすべて監司、州、県といった地方官や公吏(胥吏)が行為主体であり、人戸が直接経済的被害を被る事態を描いている。逃亡などした酒務の拍戸の家の者を無理に拍戸に充てることも、経済的負担を結果するし(25)、両税の支移折変を情実によって減免したり(36)、宗室は色役(諸色の差役)を免除する規定を胥吏が出入した場合も(39)同様で、結果的に被害を受けた人戸に同様に越訴して告訴することを許している。以上の諸条文はいずれも、税の付加的徴収・根拠のない税的な搾取、差役割り当てなど、金品や労働力の授受に関する官吏と民の間の経済的(金銭的)なトラブルで、その被害者たる人戸が、加害者の官吏を越えて、上級機関に越訴することを許したものである。しかしさらに、監察官が来る前に拘置している囚人を他所に隠してしまう場合、囚人の家族に越訴を許す規定もある(15)。これは、官吏が、自らの食料費の横領などを罪人が監察官に訴えるのを阻止しようと隠すことを想定したものであればやはり金銭的な問題となる。『慶元条法事類』の上記の事例では、その行為主体はすべて、州県・監司の官僚や胥吏などである。個別に指摘しないが、それは「場面」欄に見える如く明記されている場合も多いし、それ以外も両税(州県)、和糴(監司)など「行為」から明白なことが殆どだ。その中で少しく趣を異にするのが16で、これは形勢戸や豪民が、勝手に獄具を置いて人を拘留することを禁じ、拘留された者に越訴を許している。他の事例がいずれも州県の官吏が行為者であるにもかかわらず、ここで形勢戸・豪民が越訴の対象となっているのは、彼らが多く地方官吏と結託しており、実質的に県や州に訴えても無意味な場合が多かったからにほかならない。つまり南宋の法令に広範に現れる越訴規定とは、地方官僚・胥吏・形勢戸と人戸との間に(主に経済的)トラブルがあり、人戸を救済せねばならぬ場合、被害人戸に、当事者たる地方官府への訴え又はそこでの結審を待たず上級機関へ訴えても越訴の罪を課さない規定である。しかし越訴が許されるものは「人戸」などと一括され、有徳者か否か、官位を有するか否かなどは一切問われない。職役に裁判行政を分担させるどころか、越訴法の中で胥吏は、不良地方官・形勢戸らと共に、殆ど常に加害者としての位置付けしか与えられていない。そして宋制では、越訴禁止の原則の適用を除外されるか否かは、これらの法令自体によって決定される形を取っている。
 またひとこと触れておかねばならぬのは、「越訴」と、「陳訴」などの相違だ。実は、宋代の法令の中に、南宋期の総数としては越訴規定より少ないものの、「許人陳訴」など「陳訴」「陳告」を許す規定は少なくなく、それは地方官吏の不正を人戸に訴えさせるなどの形で北宋初期からすでに見られるし、しかも「人戸に提刑司に詣でて陳訴するを許す」などの規定もある。単に「許人告」というものもある。しかしこれは本来的には順を踏んで述べ訴えるという意味である。たとえば胡穎は、楊應龍にヌレギヌを着せようとした羊六が「正に本県に経陳し、又た憲台に越訴」するも意を遂げず、「憲台虚妄を灼見し、本府に押下し結絶」せしめんとするに及んで羊六は半ばにして逃亡した、という事件を伝えている【23】。すなわち、県に訴えるは陳、府を経ず提点刑獄司に訴えるは越訴である。後述のように孝宗時期には、越訴の禁を厳格にしようとする動きが見られるが、その隆興二年の臣僚上言では、「越訴を許さないのは当然だ」との認識から、訴えを受けた州県監司が一定期限内に結絶しない場合は、「人戸に次第もて陳訴するを許す」ことを請うている【24】。つまり越訴を許さず順序を踏ませれば、陳訴を許す、との表現になる。ただ、中にはこうした語が越訴と極めて紛らわしい使われ方をしている例もある。例えば「諸ての州県、輙りに税務をして公私物色を収買し、及び請託し過税の類を饒減せしむるは、人に監司に経りて陳告するを許す」【25】とする場務令が存在する。この条文の内容からすると、越訴と陳告の差別は難しい。また淳煕三年には、「州県がみだりに科罰して百姓の財物を奪うことを禁じた法令で人に越訴を許しているが、最近はなお台省に陳訴するものが絶えない」との言に対して、「今後台省に自らの事情を陳状するものがあればその官を罰せよ」と詔が出ている【26】。これらの例では「越訴」や「陳訴」「陳告」の語が、行為内容によって厳密に区別されていない。まれに「陳訴」「陳告」は越訴を意味することもあるが、「陳訴を許す」「陳告を許す」は、越訴の罰を科さないことを保障していない。これに対して「越訴」は常に、順を踏まず訴えることを意味し、「越訴を許す」は、越訴の罰を科さないことを規定した文言である。なお『皇明条法事類纂』に「許人告」とする規定が散見するが、律の越訴の禁の例外規定を明確に設ける法令は、宋代以外では管見に及んでいない。無論これは筆者の見た狭い範囲での結論であって、今後発見される可能性なしとはしないが、越訴規定が詔勅や法典に広範に見られるのは宋代のみであろう。
 ところで、これら越訴規定は法令上の文言にすぎず、現実の行政において意味を持たなかったのかと言えば、そうではない。越訴を許された事案に関して、越訴を妨げる官を罰することで現実に実行力あらしめようとする政策はすでに見たが、それだけでなく、前出の秦桧期の越訴指揮を批判する周方崇の議論の中で、「頑民、反って此れ〔=越訴の指揮〕に恃み、以て官司を擾し、獄訟は滋すます長ず」と指摘しているのにも注目したい。これは、「頑民」が越訴法を悪用して官司を擾していた、つまり弊害としての認識ではあるが、善くも悪しくも越訴の法が地方政治の現場で用いられることがあったことを示している。江西一帯で訟学が流行るなど、この時期は法令を用いて裁判に勝とうとする風潮があったが【27】、その中で越訴を許す規定が利用されたであろう事は、想像に難くない。しかし残された判語等は充分でなく、その具体例を史料に見出そうとしても容易ではないが、次のような南康軍における判語が『清明集』に残されていることは付言しておくべきだろう。
〔この件は?〕訴訟の公吏は取受し、また多く県官の好き嫌いがあったので、府に訴えたもので、これを越訴として罪すべきであろうか、すべきではない。〔もとの〕主簿の判断が正しく、その通り通達する【28】。
これは短い断片的なもので詳細はわからないが、恐らく県を飛び越え府に直接訴え、一度「越訴」と判断された事案が、県官の不正を理由に無罪とされたのであろう。越訴法に基づいた判断とは言えないが、判語のレトリックとして「越訴であるが罪しない」という表現があり得たことの一例ではある。
 また、地方官に不正行為があったと称して行われる越訴行為が、地方政治の具となっていることを端的に述べる事例として、黄震の次の二つの記事に着目したい。原文は難解なので、訳を挙げる。
・転運に着任したら訴訟を受け付ける。法では「県の判決が不公平なら州へ、州が不公平なら監司へ」訴えよ、とあるが、近年浙西のある地方では、「百家幹人」を名乗る無頼凶徒が、自在に越訴を行い、小民から脅し取り、私租のことで誣告して田を奪い、戸婚の訴訟で巧妙な騙りを行い、監司もだまされてしまう。……士大夫でたまたま材志のあるものが、出世して宰相となったり、朝廷から特派されたり、監司に取り立てられたりすると、必ず戸籍を正し、脱税を取り締まる。すると大家は必ずこぞって立ち上がり、これを攻撃する。その評価が県官に及べば、必ず毎月激しく催科されると言いこれを詞訴する。また県吏を訴える者は、必ず収税の不足の額を不正に横領したものだとする。結局、県官たちはびくびくしながら日を過ごし、小民はますます苦しみ、国はますます乱れて行く。……小民は、納税しない大家に代わって重なる督税や税のタダ払いの苦しみを味わい、家が破産し身を滅ぼし、大家を訴えることもできず、県が乗り出そうとしても〔大家は〕たちまち各方面に走り回り、台諌〔御史諌官〕へ流言飛語を流す【29】。
・監司は、州県官が万一賄賂して裁判の結果に不公平ないか、監督するものだ。最近はますます風俗が変わり、豪家が小民〔の資産を〕併呑するときは必ず恫喝し、越訴によって〔資産を〕侵害するし、富家が国税を納めないときは、必ず実態を隠匿し、越訴によって欺す【30】。
傍点を付した部分を見ると、無頼凶徒、豪民、富家という語で表現される人々が、「越訴」(冒頭の分類で言えば〈ハ〉にあたる)を行い、州県を出し抜き、一般庶民を苦しめるとされ、特に地方行政の能力・地位に関しては、無頼凶徒・大家といった地方有力者の権力に、県官が全く太刀打ちできない状況が見られる。そして県の官吏を陥れようとするときに用いられる理由が、「毎月激しく催科する(催科殆無虚月)」「収税の不足額をいつわって不正に横領する(以催欠之數就爲欺詐之贓)」などだが、この言い分は地方官吏が徴税現場で人戸に被害を与えるという点で基本的に先に見た『慶元条法事類』の越訴規定付きの法令で禁じられた地方官吏の行為と類似している。周方崇の「頑民、反って此れに恃み、以て官司を擾し」とはまさにかかる事態において越訴法が持ち出されることを伝えている。
 ここでは豪民など有力者が、『慶元条法事類』中の被害者の立場に立つ。しかも著者の黄震が嘆くのは、小民を保護しようとした県官を陥れようと、台諌にまで騒ぎ立てる有力者の行動であり、そこでは台諌による監察という綱紀粛正の制度が、本来の機能とは裏腹に、地方政治に利用される実態が指摘されている。また長江下流域だけではなく、随田佃客の存在が指摘される湖南でも、地主の圧迫を受ける客戸に訴訟能力が足りないことの指摘がある【31】。このように現実に地方の訴訟において地方有力者が無視し得ない存在であったにもかかわらず、越訴法には専ら不法官吏−豪民の取締と被害人戸の保護という図式しか存在しなかった。

第2章 上訴の階層制と越訴法に見られる南宋の特色

* 越訴禁止の伝統
 法律用語としての「越訴」は、唐律に使われるのに始まる。そこに「諸て越訴し、及び受くる者は、各ゝ笞四十」云々と越訴を禁じ、これはその後、律文としてのみならず、その他の基本的な法典においても、中国王朝の訴訟に関する原則として受け継がれて行った【32】。ただ、独自の律を編纂しなかった宋朝では、建隆四年頒布された『唐律』と同内容の『宋刑統』以外にも、翌乾徳二年に
 今より、應ゆる論訴有るの人等、所在に仰せて暁諭し、驀越陳状するを得ざらしめよ。違う者は、先ず越訴の罪を科し、本屬州縣に却送し、訴うる所に據り理に依りて區分せよ【33】。
云々と、改めて詔勅の形で越訴の禁が求められた。そこでは『唐律』すると、情が渉り理曲があった官吏を罪に問うことなど、越訴が行われた場合の地方官吏に厳しくなっているが、これは北宋初期には唐末五代の後を受けて、州軍に対し厳しく臨んだ結果であろう。
 しかし、越訴の禁止は宋においても訴訟制度の基本であり、民衆が親民官たる知県や知州を飛び越えず、地方行政の階層に沿って訴えを行うことは、取りも直さず王朝の上下関係の遵守そのものとして尊重された。その背景をなす思想を端的に論じた南宋の胡(致堂)寅によれば、越訴の禁を遵守させることは、上下の分、階級(順序)、父母官や刺史の権威といった要素を侵さないことだという【34】。そして続いて「越訴というものは、流れに棹さし、順序を無視するもので、豪宗強姓か舞文の狡吏がグルになって政治を乱しているのだ。遠隔地からやって来て朝廷を左右しようというのは、法を畏れる善良な貧丁のすることではない」と論じる。つまり越訴とは、王朝の上下関係を遵守した物事の自然な流れを乱す行為だ、とする認識だ。また越訴の禁を強化せよという議論は、健訟を押さえるためという文脈で出て来ることが多く、また実際、明版『名公書判清明集』には、これを実証するような判語が少なくない。加えて越訴の禁には、越訴が増加すれば上級官庁ないし皇帝が処理しきれないという実務的な理由も存在した。胡寅は津々浦々の人々が直接赴いて天子を忙殺すべきではない、ともいう。また明律では、越訴の結果、冤抑が明らかになったとしてもなお越訴の罰を受けることとされ、「越訴、実を得て猶お坐するは、体統を厳にすればなり」との付箋がある【35】。越訴の禁を厳格に運用するということはすなわち、「体統」、つまり上下関係を支える国家体制とも言うべきものを堅持することになる。越訴の禁の根本思想には、このような上下関係の維持、ことに官民関係や王朝のヒエラルキーに民衆は従うべきである、という観念が存在した。
 ところが元来、民が所定の地方衙門(県など)を飛び越えて上級機関に直訴するのは、胡寅の議論のように民が僭越な場合だけではない。地方官に非があり、民が冤抑を蒙っている場合もある【36】。例えば隆興三年の上奏文として
 本臺〔御史台〕、日毎に諸路州縣民戸の訟訴を受くるも、多く是れ、官吏の科擾を擅行し、肆に貪欺を爲し、監司有りと雖も受理を爲さず、以て遂に數千里の外に在るも勞費を憚らず前來し陳状せしものなり【37】。
とあり、訴訟の最終段階に位置する(後述)御史台には、全国の民から毎日もたらされる多数の訴状を受け付けており、その多くは州県官吏の不法行為や監司の不当な不受理によってやむなく苦労してやってきたものだと記されている。
 そこで伝統的な法制においては、民の雪冤も何らかの形で考慮されて来ている。例えば宋制の下敷きとなった唐制では車駕を邀える、登聞鼓を【手@】つ、肺石の下に立つ、上表するなどがある【38】。しかしながらこれらは、全国の人口と施設の数から言って、極めて非現実的と言わざるを得ない。例えば、一三世紀ですでに、全国で州県官に無実の罪を着せられ、監司にも相手にされず、長い途をへて首都の御史台に冤罪を晴らすべく全国からやってくる者の訴状は、少なくとも毎日数十にのぼったというが【39】、これを登聞鼓や肺石で捌けるとは到底考えられない。他日史料を示す予定だが、宋代では登聞鼓は民衆にあまり相手にされておらず、直訴する人々は専ら御史台に殺到するのが常だった。登聞鼓等は、冤民の救済において現実的というより象徴的な意味を持ったと考えられる。

* 上訴の階層制をめぐる南宋制の特色
 さて、以上は、北宋末以降南宋にかけて顕著になって来た越訴法の特質を述べてきた。ダイナミックな比較は筆者の能力に余るが、先行研究を参考とすることによって、上訴の階層制に関して、宋制(ないし南宋の制度)が他の王朝と比較してどのような特色を見せるのか、検討したい。
 まず、越訴禁止の原則−冒頭に述べた(イ)−が貫徹されていたことは、いずれの王朝についても同様である。しかし、宋代(厳密には北宋末徽宗朝以降)には清代と比べて、際立って異なる点が二つある。一つは本稿の主要トピックである(ロ)の越訴法が一般的だったことだが、それと表裏して特徴的な事は、南宋では上訴の順序が具体的に法定されていたことである。いわゆる必要的覆審、すなわち「命盗重案」とされる刑事的重大案件を皇帝に覆奏するなどの、手続き的に必要とされた奏裁ではなしに、訴訟当事者は判決に不服であるなどの理由で上級機関に上訴することができた。滋賀秀三氏によれば、清代では州県自理の案、徒以上の刑を結果しない、民事的色彩の強い事案は、覆審制の対象とならず、判決に不満の者、審理の遅延に苦しむ者は上訴するとされ、次のように述べられる。
 必要的覆審制については、下から上に順次にどの機関を経由すべきかが明らかに定められていたのに対して、上訴についてはほとんどそのような定めがなかった。州県を経ず直接上級機関に訴えることが禁ぜられていただけである。州県で満足を得ない者は府に訴え、さらに不満のときは道・司(藩司・【自木】司)・督撫へと順次上へ訴えるのが恐らくは普通であり、官の目からも好ましいこととされてはいたが、はっきりとそれを要求する法の規定は見当たらない【40】。
この状況は宋代においては異なっている。まず、第二の傍線部すなわち上訴の順序の規定について言えば、南宋にははっきりとそれを定める法があったし、最初の傍線部に関しても宋代(北宋末以降)、一方では原則としてこの順序に従わず越訴することを禁じつつも、一方では多くの場合について越訴することを法で許していた。例えば先に引いた『宋会要』では「人戸の訴訟、法に在りては先ず所属を経、次は本州を経、次は転運司、次は提点刑獄司、次は尚書本部、次は御史台、次は尚書省なり」【41】と、上訴の順を定めた法律が存在したことを伝えるが、同様の記事はこれだけではない。二、三の例をあげると、「法」と称して
 ・縁在法、縣結絶不當、而後經州、州又結絶不當、而後經監司【42】
・法曰、縣斷不平、許經州、州斷不平、許經監司【43】
・在法、縣斷不平、而後經州、州斷不平、而後經監司【44】
などの記述が見られる。県↓州↓監司↓御史台↓尚書省の順に上訴すべきだとするものもある【45】。唐令では本司本貫(あるいは随近の官司)より始めよとの規定があり【46】、『唐律疏議』は越訴を、この令文に違反して県を経ず州・府・省へ訴えることとする【47】。上訴の階層規定が令の流れを引く、行政法的なものであるに対し、越訴の禁は律の刑罰規定である。
 このように南宋では、おおよそ県↓州↓監司↓御史台↓尚書省という上訴の順序が法によって決められていた。また「越訴を許すの事」以外はこれに従うこととされているが、これを裏返せば、「越訴を許す」場合にはこれに従わず、直接上級機関に訴えることを許しているわけである。一般的に訴訟において上訴を進める順序と、例外的にそれを飛び越して越訴が許される場合とが、ともに法によって定められていたのが、滋賀氏が清代について述べる所とは明確に異なる、宋代の訴訟制度の特色である。無論、宋では上訴の順序とともに特定の行為について越訴が許されていたといっても、現実には一々の訴訟について、それらの法に基づいて越訴可/不可の判定をなし得たとは決して考えられない。宋代でも後代と同様その場の判断が重要だったに違いない。
 ところで、これまでは、専ら地方官吏に不正があるか、あるいはそう称して豪民などが行う越訴について議論してきた。しかし、越訴には官府にもともと関係せず、民間の民事的な訴訟に関して、紛争が高じて下級審を経ずあるいは結絶を待たずして直接上級機関に訴え出る場合もある。明清に於ける「越訴」も、かかる場合を意図すること多いが、宋代の判語は、諸事案における胥吏の関与、暗躍をかなり重視する傾向にある。しかし現実においては、宋代にあっても地方官や胥吏に全く関係せずに、純粋に民間の健訟が高じて越訴に至るケースが無かったはずはない。こうしたケースをも含めて南宋には、訴訟を行う民衆に、上訴の際に正しく書類手続きを踏ませる制度が存在した。それが断由である。類似の制度が元以降にも存在し、励行されていたか筆者は知らないが、少なくとも南宋朝は『大清律例』のように越訴に「実を得るも罰す」【48】などの厳罰を科してみたり、老人制のように県衙門以外にむやみと訴訟窓口を設けて負担減を図るのみではなく、北宋朝にはなかったこの制度が施行された。この断由とは、婚田差役の訴訟について、結絶したものは官司が「情と法」すなわち判決理由、そして判決を記し、当事者に給付する書類で、飜異の際にそれを添付しないと受理しないとされた。これは紹興二二年の臣僚の言によって始められたが、この時高宗は、「もともと人戸が陳訴するときは、県の判決が不当であってのち初めて州へ訴え、州から監司へ訴え、そして御史台へ、しかる後に省へと訴えるものだ。最近〔長江下流〕三呉の人は多く省へと訴えてくるが、このようであるから朝廷は多忙なのだ。この上奏によれ」と対応しており、宋代では法によって上訴の順序が定められているにもかかわらず、首都に近い地方の人々を中心に多くの人が中央政府に訴えを持ってきたことがわかる【49】。断由を発給したがらない地方官と、断由を定着させて冤抑を防ごうとする中央政府の間でしばしば綱引きが演じられ、官司が断由を発給しなかったことを上級に訴えた場合は、その訴えに関して断由がないからといって受理しないことはできない、といった回りくどい制度まで作らねばならなかったが、現実の判語には、断由がしばしば登場し、この制度がかなり定着していたことが分かる【50】。つまり南宋朝は、上訴の階層制を細かく法で定め、官吏等の不法行為を根拠としたその遵守の例外事項も法に具体的に存在し、さらに一般的に階層制の遵守そのものも、判決の根拠となった「情と法」を明記した判決証明書の存在を上訴の要件として義務づけることによって、保障しようとした。筆者は寡聞にして、宋以外の王朝で同様の制度が行われていたか知らないが、少なくとも北宋との比較においてこの時期は、上訴の階層制を保証しつつ冤民の越訴を許す、数多くの規定が存在した。
 ただ、直接首都へ訴える道が宋以外では法的に全く閉ざされていたわけではない。『大清律例』を見たとき、注目されるのが、京控の制度である。これまで明らかにされている所によれば、濫訴が生じた嘉慶より以前では京控案件に対し特使を欽差するなどして対応したが、その後は督撫に調査を委ねようとしたが十分ではなかったという【51】。条例には確かに京控や「驀越し京に赴き」奏告することに関する規定があるが、宋の越訴法と明らかに異なるのは、京控が許される要件としての官吏の不正行為を具体的に指定するケースが少ないことだろう。『大清律例』には地方衙門が正しく処理しないなどの場合に刑部都察院等に奏させることなどを定めてはいるが、宋代のように、京控が許される地方官の罪を律例に何十、何百と見出すことはできないようである【52】。筆者は明清に関しては全く素人なので、あるいは会典や則例を詳細に調査すれば、上級機関への直訴を許す具体的な何らかの要件が列挙されている部分がある可能性がないと断言はできないのだが、裁判の現場で「頑民」が濫発される京控などを許す法律を乱用し、地方政治を混乱させた、という状況は、明清代では南宋の江南ほど一般的には見られなかったと予測される【53】。しかしこの点での他王朝との比較は、今後に残された課題である。
 また、越訴により不正な地方官吏を監察する宋代の制度も、決して他の王朝に一般的に見られるものではないようである。明代の状況について谷井陽子谷井氏は
 『教民榜文』には、地方官の質が悪いため「民間の詞訟をして、皆京に赴き来たらしむるを致す」とあるが、地方官に問題があるのならば、なぜより上級の機関に訴える道を開いて、末端の機関を監督する方針を取らないのか。裁判組織を下方に延長することが越訴対策になるとすれば、〔里老人による裁判は〕地方での訴訟の窓口を少しでも増やして拡散させ、京師に上って来ないように末端で防ぎ止めることを狙っていたとしか考えられない【54】。
と簡述されるが、宋では越訴法によって、まさに「上級の機関に訴える道を開いて、末端の機関を監督する方針」が取られていた。宋朝の取った基本的な解決法は「地方での訴訟の窓口を少しでも増やして拡散させ」るのではなく、また官僚組織の内部統制すなわち州県官に対する監察のみに頼るのではなく、越訴可能な行為についてはそれを明記し、それ以外は一律禁止とするものだった。南宋では御史台が毎日、官吏の科擾・貪欺に苦しむ「数千里の外」の諸路州県民戸の訴状を受けていることを指摘した先の臣僚言では、訴えをもとに御史台に地方官を弾劾させることを定めており【55】、民の訴えを積極的に監察に利用することもあった。
 このように南宋の制度は、少なくとも北宋に比して、法が細かく、手続的に具体的だった。清代とも異なって県から御史台に至る本来の上訴の階層制も法定されていたし、その原則の例外を許す越訴規定も、地方官吏の不法行為を禁じる法律に細かく加えられて行った。確かに宋初以来、そもそも州軍に厳しい姿勢があり、また北宋末当初は越訴規定は個々の法令の有効性を確保するために付属された文言に過ぎず、政治闘争への利用の意味合いも濃かったかもしれないが、結果的に越訴法は徽宗朝以後宋一代に渉って出され続けた。このような民事的方面あるいは官吏と民の関係における法の細かさを持つ分野はある程度の広がりをもっており、ここで筆者が概括的に論ずることはできない。ただ、後代との対応で越訴に限って言えば、こうした法の細かさと胥吏への不信頼は表裏するようである。南宋王朝の胥吏に対する不信感は極めて強く、「公人」「吏人」つまり胥吏への禁止・処罰規定に溢れかえる『慶元条法事類』も、胥吏が殆ど常に悪役として断罪される『清明集』も、読んでこれは胥吏攻撃のための道具ではないかと感じるのは、筆者だけではあるまい。恐らく宋では、裁判はあくまで士大夫たる地方官が行うべきものと観念されたのであり、職役や郷役に裁判業務を肩代わりさせる制度が全国的に施行されることはなかった。越訴規定に細々した規定が多見するのは、吏ではなく士大夫官僚が勅令等によって地方社会の小事にまで積極的に関与しようとした必然的な結果でもあるが、宋代の法制の細かさは全般的に見られるものであり、ここでその背景・原因について論じる余裕はない。また、元朝における胥吏の地位が論じられねば、議論の進展は望めない。しかし原因はどうであれ、法制が細かい、という実態は存在したのであり、そのことが当時どう認識されていたかを、以下手短かに述べ、本稿を終えたいと思う。

おわりにかえて-葉適の新書批判

 上訴の階層制を定める法や、地方官吏の不法行為に際して個々にその例外を認める越訴の法、さらに断由の制度など、北宋末から孝宗期以降の上訴の面での法は北宋前半との比較において諸事項を非常に具体的に決定していた。ではさらに広く官民関係、さらには民間の利害を調整する法は、明清代と比較して南宋では詳細・具体的だったと言い得るだろうか。それに答えるだけの余裕は本稿にはないが、少なくとも南宋中期の法制がことさら細かく民間の利害に介入する性格を有していたことについては、すでに当時、これを批判する論調が存在した。朱熹や葉適である。
 宋では宋律が編纂されなかったが、宋初に頒行された『宋刑統』(唐律と同内容なので、以下律と代称する)が重用され続けた。これに対して宋代には、勅令格式を中心とした、雑多な法典が存在する。朱熹らが批判するのはこの「新書」と総称される宋で度々編纂された勅令格式の、具体性・詳細な諸側面なのである。朱熹は、律は秦漢以来の伝統を持ち極めてすばらしいが、「新書」と称される宋で度々編纂された勅令格式は、乱雑で良くない【56】、として律の重視を強調する。また葉適も同様に、新書を批判し、律の軽視を嘆いている。その主張を以下に略述するが、ここで葉適の議論の全体を述べる余裕はない。よって甚だ粗雑の嫌いを免れ得ないものの、巻一四「新書」を中心として、新書および宋の法制に関する記述のみを、意訳を混じえて要約する形で述べる。
 昔患ったのは、法度が簡単すぎるということだったが、今はますます密となり、内外上下、どんな小さな事、小さな罪にも、すべて法が用意されている(巻一〇「実謀」)。〔宋の法制は〕益々細密になり、一挙手一投足に法禁がある。仁宗のころはまだ人は五代への反省を心に止めていたが、遠く宣和になると法度はますます紊となった(巻一二「法度総論二」)。宋では律を軽んじ、勅令格式が随時脩立されてきた。〔『嘉祐編勅』から『淳煕重修勅令格式』に至るまで〕、新たな書が常に優先されてきた。天下の事は、すべてこの新書に備わっていから、かえって人智が発揮される余地がなくなっている。法があっても現実には弊害が絶えず、「各の已に見行条法有り、ただ檢坐・申厳のみに止めん」などとばかり言うのは、法だけでは不十分なのに、無理に法だけに頼ろうとしているからだ。更に本来人に原因があるものを、「臣、愚かにも欲し望むらくは、已に行わるる法を申厳せんことのみを」などと法ではなく人が弊害をなしているように言うことがある。現今、法治主義が大きな問題となっている。たしかに、人は不公平で私〔情〕があるが、法は公平で無私であるし、人には存亡があるが法は常に存在するので、このごろは「人乱るるも、法は乱れず」としきりに言われる。ところが、法が備わっていれば万事収まるかと言えばそうではない。本来責任は人にある。「檢坐・申嚴、〔朝省の〕批状・〔六部の〕勘當、照條」の必要を言うばかりでは、人の聡明さや智慮が発揮される余地がない(巻一四「新書」)。
葉適の議論の要点を敢えて一言でいえば、宋代の勅令格式は極めて詳細だが、「以法為治」(巻一四「新書」)つまり法治主義的政策【57】にはそれなりの限界があり、人治をも重視せねばならぬ、ということだ。彼の批判は「新書の害」と律の軽視へ向けられ、「凡そ天下のこと、此の書に備わざる無し」と、社会の諸問題を扱う新書による政治の限界が指摘される。そして「宣和に至り、また〔五季を去ること〕遠なるを加え、其の法度紊なり」と、宣和以来ますます詳細さを加えた宋の法制体系そのものが批判される。宋朝が行ってきたように、社会を法治主義的に詳密に統治することはもはや不可能だ、これが葉適の主張であり、朱熹を含めて新書を批判し律を重視する南宋中期に一部共通した主張であろう。
 ここで今一度、冒頭の〈イ〉〈ロ〉を想起されたい。唐以降の律の歴史の中で、訴訟において最も重視されたのは、越訴禁止の原則であった。これは「体統を重んじる」結果であり、胡寅が主張する厳格な官民の上下関係重視の要だった。これに対して、北宋徽宗朝〜南宋に細々とした越訴規定を供給した中心は、ほかならぬ新書である。例えば、黄震が記したように、有力者が、苛斂誅求があったと称して県官を攻撃し、州や監司に訴えでたとする。すると越訴禁止・訴訟の順序の一般的な規範に対して、『慶元条法事類』に見られるような、より個別具体的に地方官吏の犯罪を明記する越訴規定付きの条文があればそれの優先度は高いから、知州や監司が越訴の罪でその有力者を罰しようとしても、県官の行動が越訴規定を付した条文に該当するケースであれば、有力者はそれを盾に強力に自己主張できたはずである。そしてその条文が多ければ多いほど、人戸(=有力者)には有利になる。周方崇の議論は、まさにかかる弊害を指摘したものに違いない。
 明以降の法典編纂史では、葉適や朱熹が称揚した原則重視の律とその条例が中心となり、これに対して越訴禁止原則の例外を具体的に定め、政府が細かく民間の利害調整にかかわろうとした新書の伝統は、主流とはならなかった。その一点に限って言えば、律を唯一の機軸とした明清朝は、どちらかと言えば旧法党から道学・朱子学の主張に沿い、士大夫が積極的に詳細な立法を行って民間に介入する王安石的・アクティヴィスト的な統治姿勢ではない【58】。たしかに監察制度としては、その後張居正の考成法のような武断的な政策も行われたが、それはやはり官僚に対する締付けであり、地方官と人戸との関係に立ち入って制度的に調整しようとするものではなかった。無論、本稿で扱った訴訟制度の一面のみで宋以降の統治の特質を語るというのは、暴論に過ぎよう。しかし、宋代からそれ以降の監察、上訴、胥吏などの制度的展開を眺めようとするとき、秦桧期に隆盛を見る新書的な政策と道学者の議論、さらには北宋の新法と旧法の対立軸を考慮してみるのも、数ある考察の枠組みの選択枝の中に含まれるのではないかと思われる。




--------------------注---------------------------------------------


【1】細野浩二「耆宿制から里老人制へ−太祖の『方巾御史』創出をめぐって」『中山八郎教授頌寿記念明清史論叢』燎原書房、一九七七、三木聰「明代里老人制の再検討」『海南史学』三〇、一九九二、後出谷井論文(注 )。本稿は南宋の視点から老人制を議論することを意図してはいないが、最近の学説史整理として伊藤正彦「明代里老人制理解への提言−村落自治論・地主権力論をめぐって−『東アジアにおける社会・文化構造の異化過程に関する研究』(平成六−七年度科学研究費補助金一般研究(B)研究成果報告書、一九九六)参照。

【2】北宋末〜南宋に、健訟対策として提訴段階での手続きが具体的に定められていたことについて、草野靖「健訟と書舗戸−赤城報告に寄せて−」『史潮』一六、一九八五、陳智超「宋代的書舗与訟師」『劉子健博士頌寿紀念宋史研究論集』同朋舎、一九八九、高橋芳郎「務限の法と茶食人−宋代裁判制度研究(一)−」『史潮』二四、一九九一。なぜ北宋末〜南宋にかかる傾向が見られたかは、本稿のテーマにもかかわる。

【3】帝政「中国」の領域に、伝統的な中国文化の言語には表れにくい、様々な偏差をもった地域社会が存在すると考えれば、明清の法制から「中国社会」を概括的に論じようとすることに対して、地域社会論からの、また宋元以前の法制史研究からの問題提起を予想せざるを得ないことは、筆者が改めてここで指摘するまでもないだろう。ただ一方、近年は中島楽章氏の一連の徽州研究(例えば宋・元社会も視野に入れた「徽州の地域名望家と明代の老人制」『東方学』九〇、一九九五)に代表されるように、地域の総合的な理解を可能にする研究も少なくない。

【4】「越訴之法」とは、本文所載の紹興二七年周方崇の言( 頁)ではかかる法令(〈ロ〉)を意味するが、同じ語が『宋会要』刑法三−三三乾道?五年七月一日魏欽緒の言(注14)では越訴禁止の原則(〈イ〉)を指している。両義あるが、本稿で「越訴の法」というときは、前者の用法によることとする。

【5】越訴は上訴に関する規定だが、宋代の裁判、訴訟制度について既に内外に少なからぬ関連文献があるにもかかわらず、訴訟開始に至る手続き(注2に示した諸論文を含む)ではなく、訴訟開始後の上訴等を中心とした研究は比較的少ない。宮崎市定「宋元時代の法制と裁判機構--元典章成立の時代的・社会的背景」(『アジア史研究』第四、東洋史研究会、一九六四、もと一九五四)、徐道鄰『中国法制史論集』(一九七五)所収諸論文、楊廷福・銭元凱「宋朝民事訴訟制度述略」『宋史論集』(中州書画社、一九八三)、戴建国「宋代刑事審判制度研究」『文史』三一(一九八八)、長井千秋「宋代の路の再審制度−翻異・別勘を中心に」『前近代中国の刑罰』京大人文研(一九九六)などがあるが、なかんずく郭東旭「南宋的越訴之法」『河北大学学報』(哲学社会科学版)一九八八−三(石川重雄「南宋期における民事訴訟と番訴−『名公書判清明集』を手掛かりに」『立正史学』七二(一九九二)もこれを承ける)は、越訴法に着目し、地方の官吏が不正を働いた場合、人戸が越訴できる規定が北宋末から頻見されることを明らかにされている。郭氏は基本的に人戸の訴訟権が拡大しつつあったとされるが、訴訟権とは何か、それが元以降後退したと考えるべきか。また越訴を『慶元条法事類』をもとに七種類に分類する蓋然性については疑問があるので、改めて本稿で考察した。

【6】「詔累降處分約束、諸路監司州縣、止率科・率配買、及紐折省租税、並一切營利誅求害民等事、前後非不丁寧。訪聞、有司壅遏徳意、遠方小民無所申訴。仰逐路人戸許實封投状越訴、受詞状官司、如輙敢稽違、其當職官吏並以違制條科罪」(『宋会要』食貨七〇−二〇大観四年三月二一日)。郭前掲論文以降、越訴法の出現は政和年間とされてきたが、これはそれより早い。率科、率配買という付加税的徴収、租税を実質的に割高な別品で払わせる紐折、そして地方官のこのような利を営み、民に対す一切の苛斂誅求の被害者の人戸に限って、訴訟の上下関係を乗り越えて越訴することを許している。

【7】『宋大詔令集』二〇二「置杖不如法決罰過多許越訴御筆」政和三年一二月一一日

【8】それぞれ『建炎以來繋年要録』(以下『要録』と略称)三七建炎四年九月甲寅(『皇宋中興両朝聖政』八同日にも見える)。『要録』四九紹興一年一一月乙巳(『皇宋中興両朝聖政』一〇同日にも見える)。

【9】刑部言、「臣僚剳子乞『立法、應人戸、於條許越訴、而被訴官司、輒以佗故  者、随其所訴輕重、以故入人罪坐之』。本部看詳、立法『諸人戸、依條許越訴事、而被訴官司、輒以他事**、追呼赴官者(家屬同)、杖八十。若枷禁*拷者、加三等』。欲乞、遍牒施行」。從之。『宋会要』刑法三−二五紹興四年一二月一一日)。

【10】『宋会要』刑法三−二九紹興二七年七月二二日

【11】指揮の動向については『中国歴史大辞典・宋史』上海辞書出版社、一九八四、「指揮」の項(朱瑞煕)参照。

【12】秦桧政治について一連の成果を残された寺地遵氏は、告訐・羨余強制を挙げ「秦桧特有な政治手法」(『南宋初期政治史研究』三七四〜三七五頁)とされる。厳密に言えば告訐も羨余も「秦桧特有」ではないが(羨余については拙稿「南宋の羨余と地方財政」『東洋学報』。告訐については例えば仁宗期に流行したと呂言毎が批判する。『続資治通鑑長編』一九一嘉祐五年六月乙丑条)、台諌へともかく秦桧が下僚による上層部批判をも利用して政治闘争・粛正を展開してきたのはこの時期に特徴的であり、越訴の制度が地方官の追い落としに利用された可能性は大きい。密告に多用された短巻はこの時期特有の流行である。

【13】『宋会要』刑法三−三一隆興二年正月五日

【14】「臣僚言、伏覩、刑部關牒、不許越訴、甚爲至當然。州縣監司、所受詞訟、多有經渉歳月、不爲結絶者。欲乞、行下刑寺、將州縣監司詞訴、分別輕重、立限結絶、如限滿尚未與決、許人戸次第陳訴、從之」(『宋会要』刑法三−三一隆興二年正月二〇日)。さらに「越訴之法、前後申嚴、非不詳備。今有所訟至微而輒以上聞者、又有冒辜伏闕者、則越訴之法、殆爲虚設。欲望、明詔有司、嚴立法制、庶幾人稍知畏」」と、「越訴之法」(この場合越訴禁止の法)が、小事を請託を求めて中央に訴える者が多く、空文化しているとした大理寺丞魏欽緒の言を受け、刑部看詳となっている(『宋会要』刑法三−三三乾道?五年七月一日)。

【15】同書について特に最近の書誌学的研究として川村康「慶元条法事類と宋代の法典」滋賀秀三編『中国法制史−基本資料の研究』(東京大学出版会、一九九三)がある。

【16】01の条文は表に示された通りだが、01-a、bの原文を一応示すと、それぞれ01-a「諸監司、以人戸合納穀帛絲綿之類、紐折増加價錢、或糴買糧草、抑令遠處輸納、若巧作名目、額外誅求者、並以違制論。守令奉行及監司不互察者、與同罪、亦許被科抑人戸越訴。」、01-b「諸監司糴買粮草、抑令遠處輸納、若巧作名目、額外誅求者、並以違制論、守令奉行及監司不互察者、與同罪、許被科抑人戸越訴」。02条文は表そのままである。

【17】『宋会要』食貨六九−四六建炎二年四月五日

【18】表中(一九)は、倉庫令が宋会要食貨六八−一四淳煕一六年八月一六日臣僚言の後半部分に相当する事例がある。

【19】『宋会要』食貨六四−三二紹興三〇年六月一八日

【20】『慶元条法事類』三七「給納」

【21】『慶元条法事類』三〇「經總制」旁照法

【22】『宋会要』食貨六八−一二淳煕三年四月六日

【23】『清明集』一三「以劫奪財物誣執平人不應末減」

【24】「臣僚言、伏覩、刑部關牒、不許越訴、甚爲至當然。州縣監司、所受詞訟、多有經渉歳月、不爲結絶者。欲乞行下刑寺、將州縣監司詞訴、分別輕重、立限結絶。如限滿尚未與決、許人戸次第陳訴、從之」(『宋会要』刑法三−三一隆興二年正月二〇日)。

【25】『事類』三六「商税」場務令

【26】「中書門下省言、累降指揮約束、州縣不輒得因公事科罰百姓錢物、許人越訴、坐以私罪、非不嚴切。近來、尚有人戸經臺省陳訴不絶。詔自今有經臺省陳状事實干已者、仰戸〔部〕開具科罰官職位姓名申尚書省」(『宋会要』刑法二−一一九「禁約」淳煕三年八月二六日)。理のある訴訟に対しては「越訴」の語は避けられる場合がある。

【27】江西の訟学については宮崎前掲論文以降指摘されているが、江西の法文化について拙稿「健訟の地域的イメージ」参照。

【28】星渚『清明集』卷一一「越訴」、解釈を重視して訳出した。原文「訟公吏取受、多因縣官好惡之偏、所以經府、豈可罪其越訴。主簿所斷具當、從申行下」。

【29】黄震『黄氏日抄』八四「鍾運使李玉」知撫州黄震が江西転運判官への書の中で、自分が浙西の監司の属官であったときの見聞として。

【30】黄震『黄氏日抄』七九「詞訴約束」

【31】「荊湘之間、有主戸不知愛養客戸。客戸力微、無所赴訴者。往年鄂守莊公綽言於朝『請買賣工田、不得戴客戸於契書、聽其自便』」(胡宏『五峯集』卷二「與劉信叔書五首」第一首、莊綽は建炎間知鄂州)。

【32】「諸越訴及受者、各笞肆拾、若應合爲受、推抑而不受者、笞伍拾、參條加壹等、拾條杖玖拾。即邀車駕及[手過]登聞鼓、若上表訴而主司、不即受者加罪壹等、其邀車駕訴而入部伍内杖陸拾(部伍謂入導駕儀仗中者)」(『宋刑統』二四「越訴」、『唐律疏議』二四「越訴」)。

【33】『宋大詔令集』一九八政事五一禁約上「禁越訴詔」乾徳二年正月乙巳(『宋会要』刑法三−一〇同月二八日、『続資治通鑑長編』五同日、『燕翼詒謀録』同日)。唐律に比してさらに、州県への訴えを経ていないものを越訴のとがを科したうえで差し戻すこと、諸州府にこの詔を要路に粉塗壁掲させること、が補足されている。

【34】「所貴乎、治世者、上下之分嚴、而民志定也。以情達之故、撤去階級、使百姓陵父母之官、畏刺史之權……、夫赴于天子、此所謂以善爲之、而召禮之道也。夫以四方万里之遠而皆得自赴于天子、以一人之聰明而兼千百州縣之職、元首叢[月坐]而庶事堕廢矣、然則禁。……夫越訴者、敢於陵亂、不顧階級、非豪宗強姓、則舞文狡吏、相爲表裏、奸言亂政、欺惑朝政者。其力能自遠於朝廷使變移是非顛倒獄訟、必如其志而非善良貧丁敬畏三尺者之所能也」(『古今合璧事類備用』外集二六詞訟「胡致堂論越訴」)。

【35】『明律』二四

【36】冤の意味は広い(滋賀秀三『清代中国の法と裁判』(創文社、一九八四、五〇頁)。現実には審理に極めて長い時間がかかることが多く、埒があかずに、上級機関に訴え出ることもあった。南宋のある記述では、受理詞訟は当日結絶すべしとの慶元令(恐らく断獄令、『慶元条法事類』にはなし)があるにもかかわらず、訴訟は早くとも一年近く、あるものは数年にいたるものもあり、「寃枉獲申」が求められている(『宋会要』刑法三−四〇嘉定五年九月二日)。このような場合も寃枉であるが、結審が長引く理由には、単に地方官吏の怠慢によることも、地方官吏が被告と結託し、原告に不利をもたらすよう故意に長引かせたこともあったと予測される。逆に詞訟があっても「郷村の豪民」が出頭命令を拒否し続けるのでいつまでも結審しないこともある(黄カン『黄勉斎集』「[龍共]儀久追不出」)。

【37】『宋会要』刑法三−三一隆興三年一〇月五日

【38】宋の登聞鼓につき石田肇「北宋の登聞鼓院と登聞檢院」『中嶋敏先生古稀記念論集(上)』一九八〇参照。また『唐律疏議箋解』も関連資料を若干収集している。

【39】以上、「侍御史尹言、『本臺毎日受諸路州縣民戸訟訴、多是官吏擅行科擾、肆爲貪欺、雖有監司、不爲受理、以遂在數千里外、不憚勞費前來 陳@。欲望特降指揮、自今後許本臺取毎月臺諌官所論州縣官吏、貪汚罪犯、及因本處民戸陳論得實、施行事項監司不曾按發究治、擇一二多者具名奏劾、將本路監司重行貶黜庶、使遠方之民、得以安業』。從之」(『宋会要』職官四五−二四隆興三年一〇月五日)。「臣僚言『伏見御史臺訟牒、日不下數十紙。皆州縣斷違不當、使有理者、不獲伸無辜者、反被害、逐經省部以至赴臺。乞令御史臺擇其甚者、具事、因與元斷官吏姓名奏劾、取旨行遣』。從之」(『宋会要』刑法三−三一隆興二年八月一三日)、その他『宋会要』刑法三−三一乾道一年一月一七日など。

【40】滋賀前掲書三三頁。原注省略、傍線青木。

【41】『宋会要』刑法三−三一隆興二年正月五日

【42】『宋会要』刑三−三二乾道(淳煕?)二年七月九日、臣僚言

【43】黄震『黄氏日抄』七九「詞訴約束」

【44】黄震『黄氏日抄』八四「鍾運使李玉」

【45】「臣僚言『今後、民戸所訟、如有婚田差役之類曾經結絶、官司須具情與法、敘述定奪、因依、謂之斷由、人給一本、如有飜異仰[糸徼]所給斷由于状首、不然不受理、使官司得以參照批判、或依違移索、不失輕重、將來事符前斷、即痛與懲治』。上宣諭宰臣曰「自來應人戸陳訴、自縣結斷不當、然後經州、由州經監司、以至經臺、然後到省。今三呉人多是經至省、如此則朝廷多事。可依奏」(『宋会要』刑三−二八紹興二二年五月七日、『要録』 紹興二二年五月七日辛丑)。

【46】唐公式令では本司本貫(あるいは随近の官司)より始めよとの規定があり(「諸々辭訟、皆從下始、先由本司本貫、或路遠而躓礙者、隨近官司斷決之、即不伏、請給不理状、至尚書省、左右丞爲申詳之、幅給不理状、經三司陳訴、又不伏者、上表……」云々、仁井田陞『唐令拾遺』、東京大学出版会、一九八三、六〇〇頁、もと『大唐六典』)

【47】『唐律疏議』二四「越訴」

【48】『大清律例』訴訟「越訴」

【49】注44『宋会要』『要録』中の上諭によりこれが越訴対策だったことが分かるし、また「……民間詞訟、多有飜論理斷不當者、政縁所斷、監司不曾出給斷由、致使健訟之人、巧飾偏詞、紊煩朝省」云々(『宋会要』刑法三−三四(淳煕?七年)十二月十四日)とあれば、断由について健訟を強く意識していたことも明らかである。断由の用例は、ほとんど民事的な利害関係の調整を行う裁判の判決中に登場する。右記紹興二十二年五月七日臣僚言の「飜異」は「婚田差役之類」と言うから、民事的案件に関わるものであろう。断由を梅原郁氏は「判決理由書」と訳す(同氏訳注『名公書判清明集』同朋舎、一九八六、三六頁)。

【50】断由を当事者が裁判において利用する事例は『清明集』一三「以累經結斷明白六事誣罔脱判昏頼田業」に見える。黄カン『黄勉斎集』所載の書判にも、断由を給するものが多い。

【51】那思陸『清代州県衙門審判制度』(台北、文史哲出版社、一九八二、一九九頁f)、滋賀前掲書(三三頁f)など。

【52】「外省民人、凡有赴京控訴案件、如州縣判斷不公、曾赴該管上司、曁督撫衙門控訴、仍不准理、或批斷失當、及雖未經在督撫處控告有案、而所控案情重大事屬有據者、刑部都察院等衙門、核其情節、奏聞請旨。……」(条例一七)

【53】そう考える理由は、さらに裁判において用いられる成文法の法源が宋と清で異なるからである。「判語において引照される国法とは、具体的に言えば大体において『大清律例』なるただ一つの法典に限られ」(滋賀前掲書、二七一頁)、則例省例などが引かれることは極めて稀だとされるが、宋代の判語では律、編纂された勅、令(令についても『清明集』九「有親有鄰在三年内者方可執贖」、一三翁甫「*妄訴妹身死不明而其夫願免検験」など枚挙に暇なし)が参照され、越訴法はまさに裁判で日常的に参照される勅、令のレベルに存在する。無論判決内容を直接決定する参照でないものも含めれば、田令と「嘉定十三年刑部頒降条冊」(九胡頴「親鄰之法」)も法として引かれ、礼(十胡頴「妻背夫悖舅断罪聽離」、「夫欲棄其妻誣以曖昧之事」)、俗語(一一呉勢卿「治推吏不照例禳祓」)なども参照される。

【54】谷井陽子「明代裁判機構の内部統制」『前近代中国の刑罰』京大人文研(一九九六)

【55】『宋会要』職官四五−二四隆興三年一〇月五日(注38前出)。前出引用部分に続いて「欲望特降指揮、云々」とある。「臣僚言『伏見御史臺訟牒、日不下數十紙、皆州縣斷違不當、使有理者、不獲伸無辜者、反被害、逐經省部以至赴臺、乞令御史臺擇其甚者、具事、因與元斷官吏姓名奏劾、取旨行遣』。從之」(『宋会要』刑法三−三一 隆興二年八月一三日)と、これと類似の上奏はその前年の隆興二年にも行われている。

【56】「曰、律是刑統、此書甚好、疑是歴代所有傳下來……、今世却不用律、只用敕令、大概敕令之法、皆重於刑統」「曰、律自秦漢以來、歴代修改……、因言、律極好。後來敕令格式、罪皆太重、不如律、『乾道淳煕新書』、更是雜亂、一時法官不識制法本意、不合於理者甚多……」(『朱子語類』一二八本朝二「法制」)。新書とは、葉適によれば、嘉祐、煕寧、元豊、元祐、紹聖、大観、政和、紹興、乾道、淳煕と隨時修立されてきた勅令格式である(『水心別集』一四「新書」)。朱熹の言う『乾道淳煕新書』はそれぞれ乾道八年と淳煕四年に編纂された『乾道重修勅令格式』と『淳煕重修敕令格式』を示す。新書につき仁井田陞・今掘誠二「金玉新書及び淳祐新書考」『東洋学報』二九−一(一九四二)参照。こうした朱熹の律が使われていないことを嘆く論調は、最近まで法制史研究に影響を与えてきたと思われるが、現実には『清明集』などの判語に引かれる法源としては、勅令も律もともに多い。「勅は律を修正補完する存在であり、勅と律は特別法と一般法、あるいは後法と前法の関係に立って」(川村前掲(注23)論文)いたのであり、朱熹が論じるように、律が常に勅より軽視されていたとは理解できないことは、いまさら筆者が指摘するまでもない。

【57】北宋末以降の宋代の法制にも影響の大きい王安石の制度・法思想について土田健次郎氏は、王安石は「意見統一が可能な場を制度と文字に見出し」たと言われる(「王安石における学の構造」『宋代の知識人(宋代史研究会研究報告第四集)』汲古書院、一九九三、二七頁)。この時期の法の実効性・強制力について、Brian McKnight, Law and order in Sung China, Cambridge U.P.,1992にも参照すべき議論があるが、もはや紙幅が尽きた。

【58】王安石新法をアクティヴィスト的政策と解し、その後の王朝に影響を与えたのがむしろ司馬光的経世と考えるのはピーター・ボル氏である(Ordering the world)。




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